昭和48年10月17日 朝の御理解
御理解 天地書附
「生神金光大神、天地金乃神一心に願え。おかげは和賀心にあり、今月今日でたのめい。」
この度の教祖九十年祭、御本部から御直会として頂いて参りました天地書附、現教主様がお書下げ下さった物を、此処に額が上がっとりますね。このお祭りの前に上げて頂いたんですけれども、こんな見事な天地書附が正面に額として上げられました。それは元々教祖様は、当時のお参りして来る御信者に是を、四神様に言い付けられて、そして書き貯めとけと仰った。そしてそれを参って来る者に皆に配られた。そして見よい所に貼っておけと言う様に教えられた。
それが結局金光教の御信心の中心を成す物、まあいうならお題目でもある。だから只仏教が南無阿弥陀仏がお題目である様に、その只南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏というておればよいと言うだけではない。矢張り天地書附を奉上さしてもらう事は、矢張り天地書附の御内容と云う物を身につけて行くと言う事にある。今日はその生神金光大神天地金乃神と申しますその、生神金光大神について頂きますのは。
一昨日から昨日に掛けて、朝の御理解が御理解十八節で、此方の事を生神というがというあの御理解、今日も又その生神金光大神に付いて頂くのですけども、どうでも私共がその生神金光大神を目指しての信心、そのお題目がお題目では無くて、それが私共の内容となって来なければならないと言う事なのです。昨日のお話の中にも申しました。昨日御心眼に頂いた丸い輪、その中に和と言う字が書いてある。丸い輪、その輪というのがちょこっとばかり切れてる。
だからこれをすこし、引き締めれば輪になるのです。私共はその常に引き締めるというか、絶えずああ此処のところを教えて頂いて、教えを生かして行かねばとここの所を、例えば教祖様ならばどうお受けになり、どうお取りになったであろうか。ここん所を親先生ならばどう頂いて行かれるだろうかと言う風に、一寸引き締めますと、日頃信心の稽古をして頂いとるのですから、はっきり答えが出て来るのです。
所がその引き締めないので、ままですから欠けた所は欠けたままで、そこからいうならば、おかげが洩っておると言った様な事はないだろうかと思うんです。昨夜昨日からちょっと風邪気味で、御直会を頂いてすぐ寝ませて頂いた。ですからもう御祈念もすんで、遅うにここにお礼に出て参りました。そしてまあ昨日の御大祭のああして御盛大に本当に、広大なおかげを頂きました事の、お礼を申さして貰う中にですあの舞の方達が、前日あのう衣装をつけて舞うから、一ぺん見て下さいと言って来ましたから。
私は此処から出てまいりました。それでそのう、愈々本番と同じ恰好をして舞を致しました。所がまあ本当はまだ未熟というか、始めての事ですから二人の子供が、あのうまあそればってん、始めてじゃけん、こん位のものじゃろうと思うている所でした。 所が実際、昨日本番になって参りましたらもう、昨日とてもあれが始めての舞人とは思えない程しでした。もう第一、一人一人が連れ舞というのは、綺麗に舞っただけじゃいかんのです。あの呼吸が二人ぴったり合わなければいけんのです。
それを私は横で見させて頂いておってあのう。構えといいあの所作といい是はとても、あのう一ぺん二へんどん本舞台を踏んだ舞人とは、その別人の様に素晴らしかったんです、でその事を昨日私は本当に広大なおかげを頂きましてもうこりゃ神様のおかげを頂かねば出来る事じゃないと思いましたね。その事をお礼申さして頂いとりましたらね、あのう私がこうやって風邪気味であると言う事も、深い御神意御神慮によっての事である。昨日御大祭の一から十までの全てがです。例えば見えなかった先生があったり。
又は思いかけない先生が見えておったり、もうこれも一分一厘間違いのない、来ない先生は来ない方が良いのであり、そこには来ておかげを頂く先生がまた来ておると言った様になりね。もう是は斎員だけの事ではありませんけれども、もうあれだけの事がなされると言う事の、中身と言う物は、もう神様の一分一厘間違いの無い働きの中にです、あれが昨日の御大祭があった。言うならば素人にも等しい、勿論稽古は致しましたね、まあ本当にあのう吉備舞か何とも解らない舞人がです。
一昨日見た私の舞は何処迄も矢張り、まあだはじめてじゃけん仕方がないというよりほかなかった。ところが昨日のは、もう随分稽古にも稽古をして、本番を何べんも踏んでおる者の舞であった。思わずこちらのその参拝者の方から、拍手が起こる程しであった。ですからそういうなら舞人の引く手差す手の中にも、神様の何というか、呼吸というか、神様の息が掛かっておる。それはその舞の事だけではない。
一切の事の上にそういうおかげを受けて居るのだぞという、意味の事を頂いて、本当にお礼を改めて申さして頂いた事でした。そういう神様の、いわゆる生神金光大神、天地金乃神とこうおっしゃる、天地金乃神様のそのお働きをです、生神金光大神の御徳によって、今日のお祭りに現れておる様な、働きをあ現す事が出来るのが、生神金光大神です。素晴らしいタイミングね、素晴らしいそのおかげと言う物がです、それを私はあのう受けきって居られたのが、教祖生神金光大神だと思うです。
なるほど天地金乃神と同根と、天地金乃神から讃えられなさったと言う事が良く分かるような気が致します。その生神金光大神はです、昨日の御理解じゃないけれども、合楽なりに生神金光大神を現した事になるのです。是は信心の無い者信心の薄いというか、神様の天地の働きを現して得なかったら、ああいうお祭りにはなって来ない。もう本当に昨日のお祭りの事を思わせて頂いただけでも、一から十まで神様の間違いのない働きの中に、あのお祭りがあった。
なるほど、だからあのお祭りの御比礼に浴する事が出来る。御比礼こうを浴びせられた様な物であった。生神金光大神の内容というのは、天地の親神様の働きをです、十二分に受けて現す働きが、生神金光大神です。だからその生神金光大神の取次を頂いて、その生神金光大神のお徳を私共も頂く精進こそが、お道の信心なのである。きのう行徳先生がお説教、昨日は本当におかげで話よかった。ところが不思議な事に思うとる事を話せなかったとおっしゃった。
だからやっぱり合楽の神様が話させて下さったんだという意味の事を仰って居られます。自分のお説教の中に仰って居られますね。もちっと昨日は砕けた、面白い話ばっかりしょうと思うとったけれども、中々その面白い話が出らずに、思いとは違ったお話がでた。そしてあの良い御理解、良い御教えを頂いた訳ですけれども、その時に仰ったですね。どうも合楽の身に打たれたと言うておられます、私はそれを本当に有難いと思います、それを平気で仰られる行徳先生も偉いけれどもね。
それをあのう皆の前でそれを仰ったでしょうが。なら合楽の威と言う事はどう言う事であろうか、いわゆる生神金光大神の威なのです。威力の威です。合楽の教会に漂様ておる所の金光大神のお徳というか、その威におとされた。だから笑い話だん出来なかったと云う意味の事を下りられてからでも仰っとられます。成程、笑い話と言うた所で、勿論その内容は信心話なのですけれどもですね、合楽の威に打たれた。私は合楽で生神金光大神を、それ程に現しておったお祭りであったと言う事なんです。
ですから是は皆さんに取ってもです、矢張り何というですか、信心を手厚う頂いておる者が、家の中に一人居りますと、他の者までが安心致します。問題が起こっても、お母さんがしっかりしておるのを見て、他の者まだ安心る。お父さんがああ心配は要らんと言われただけで、他の者まで安心する。矢張り威なんですね。ですからどうそ一つ、おかげを頂きまして私共は生神金光大神を、かすかながらでも、それを頂いて、自分の身に付けて行かなければいけない。ね。
生神とは、此処に神が生まれる事であってとおっしゃるが、その生神の神が、心の中に感じられる時に、有難いと感じられる時には、この威というか、有難いと言う物は、誰でにでも伝わって行くもんです。その生神を言うならば、生み続けておったのが、教祖様である。私共は、昨日の御理解にある、輪を頂いて居るのでけれども、ちょこっとばかり切れておると言う。
それで例えば目をつぶって、御祈念をさして貰ろうて、日頃の教えをじっと心のなかに頂くと、ああここはこう行く事が本当だという、本当な事を思うたりさせて頂く時にそこにはじめて生神金光大神の威が現れて来る。生神金光大神のいわゆるお働きをそこに現して、いわゆる生神金光大神の働きと同時に、天地金乃神様の働きを現す事が出来る、ね。私共はいつの場合でも、是が切れておる、だからこれを引き締めさして頂くところに、お互い信心がある。
そしてそこに生神の生神金光大神の威を現して行く、お徳を現して行く。そこん所を皆さんも本当に神様の働きには恐れ入りましたとか、一分一厘間違いのない働きに、そう言う働きがね、昨日の舞なら舞の事だけの上だけ現れておるのではない。昨日お祭り全体にそれが現れておるんだと。そういうおかげを頂く。まあ本当に信心も出来んのに此の様なおかげを頂いてというのは、そういう意味だと思うです。
ですから私共は信心が出来んのに、出来んのにばっかりは言うておれません 私共が事にあたってです、ああ此処は、どうある事が信心である。親先生ならこげな時には、どげな風に言いなさるだろうか。どげな風に受けなさるだろうかと言う事をですね、そう言う事が少しばかり空いておる輪をぴたっとこう引き付ける様な物じゃないでしょうか。そこに生神の威と言う物が現れる。生神の徳が現れる。それを成程、生神の間違いない働きと私共称しておる訳ですね。
どうぞ。